憲法改正の予兆高まるなか、「天皇・皇室」の在り方について議論の時がいよいよ近づいている。天皇制は、憲法解釈や人権問題などあらゆるイデオロギーを内包しつつ、繊細にバランスをとりながら継承されている。いま天皇制を議論することは、日本が選択する民主主義の形を確認する作業に近いのかもしれない。皇室の論壇最前列の高森明勅氏による天皇論。
沖縄が本土復帰50年を迎えた今年の10月22・23日、天皇陛下が即位後、初めて皇后陛下とともに現地にお入りになった。まず南部の糸満市の平和祈念公園を訪れられ、国立沖縄戦没者墓苑で花を供えて拝礼をされ、遺族らに丁寧にお声をかけられた。
沖縄ご訪問の主な目的とされた「美(ちゅ)ら島(しま)おきなわ文化祭2022(第37回国民文化祭および第22回障害者芸術・文化祭)」へのご臨席の前に、こうした日程が特に組まれているのは、戦争での犠牲に心を寄せることを大切にした平成時代のやり方を踏襲されたからだ。今回の沖縄ご訪問には、上皇陛下およびその先代だった昭和天皇の「思い」をも受け継ぐ性格があることを、見逃すべきではない。
昭和天皇の「無念」
昭和天皇は敗戦後、さまざまな不便を押して全国の都道府県をめぐられ、先の大戦に傷つき疲れた国民を励まし、奮い立たされた。その総行程は3万3千キロにもおよぶ。
しかし、沖縄だけが残された。
沖縄は、日本が国際法上、独立を回復した後も長く米軍の軍政下におかれ続け、50年前の本土復帰後も、戦争による大きな犠牲があったため、天皇・皇室に対する複雑な感情はたやすく払拭されなかった。ようやく昭和天皇の沖縄へのご訪問が決まったのは昭和62年のことだった。しかし、高齢の昭和天皇のお身体はすでに癌に冒されていた。沖縄ご訪問が中止になった時に昭和天皇が詠まれた和歌がある。
思はざる 病となりぬ 沖縄を たづねて果さむ つとめありしを
黙々とご生涯をかけて「戦争責任」を背負い続けられた昭和天皇には、沖縄を訪れてどうしても果たさなければならない「つとめ(務め)」がある、という強い義務感を抱いておられた。しかし「病」のためにそれが果たせなくなってしまった。その無念さが胸に迫る和歌だ。
上皇陛下の「あがない」
昭和天皇の無念さを、誰よりも理解しておられたのは、上皇陛下だった。そのため、ご即位後、できるだけ早く沖縄を訪れることを望んでおられた。それがやっと実現したのは、平成5年の全国植樹祭の折だった。
それ以前には、皇太子として5回のご訪問があった。その最初は、昭和50年の沖縄海洋博覧会の開会式へのお出ましだった。慰霊のために、わざわざ南部戦跡に赴かれた際に、「ひめゆりの塔」の前で過激派に火炎瓶を投げつけられる事件が起きたのは、よく知られているはずだ。この時、上皇陛下は予定になかった談話を発表された。
「(沖縄で)払われた多くの尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとりの深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません」と。
火炎瓶を投げつけた者たちの思いも包み込まれたようなおことばだった。
そして、ご自身でそのおことば通りの実践を重ねられた。皇太子として幾度も沖縄を訪れられ、毎年、終戦記念日、広島・長崎への原爆投下の日とともに、沖縄で組織的な戦闘が終結した6月23日には、黙祷を欠かされなかった。沖縄独特の琉歌も身につけ、数多く詠まれた。
そうした誠実な積み重ねの上で、天皇として初めて訪れられた全国植樹祭の会場では、地元の人たちが自発的に日の丸の小旗を振ってお迎えした(普通の植樹祭では、日の丸の小旗を振るような場面はない)。上皇陛下が天皇として最後に迎えられた平成30年のお誕生日に際しての記者会見でも、特に沖縄に言及して、次のように述べておられる。
「沖縄は、先の大戦を含め実に長い苦難の歴史をたどってきました。皇太子時代を含め、私は皇后と共に11回訪問を重ね、その歴史や文化を理解するように努めてきました。沖縄の人々が耐え続けた犠牲に心を寄せていくとの私どもの思いは、これからも変わることはありません」と。
-末尾の❝これからも変わることはありません❞というのは、とても強い表現だ。
分断と統合
この度、天皇・皇后両陛下はそうした昭和天皇と上皇陛下の「思い」を背負って、沖縄を訪れられた。
沖縄はさまざまな事情から、本土との間に政治的な分断が生まれがちだ。それゆえにこそ、「国民統合の象徴」であるべき天皇としては一層、政治とは違う次元において、分断の克服に独自の役割が期待される。そのことへの深い自覚が、令和の皇室にも確かに受け継がれているように見える。
もちろん、だからと言って政治(政府・国会)自身が分断を修復する努力を怠ってよいわけではないことは、強く申し添えておく必要がある。