ニューヨーク自由の女神 (c)笹野大輔
ニューヨーク自由の女神 (c)笹野大輔

リベラルな街から~ニューヨークの特徴を1つだけ挙げるなら

『リベラルな街から』は、ニューヨーク在住のジャーナリスト笹野大輔氏のエッセイ連載です。ニューヨークのカルチャーシーンやニューヨークから見える日本の姿について書き下ろします。

はじめに…アメリカの「保守」と「リベラル」について

ニューヨークと聞いて浮かぶイメージは人により違いはあると思う。都会、最先端、アート、金融、ブロードウェイ、そして危険…。どれも間違ってはいないが、どれか1つだけでもない。ただ、筆者は1つだけ挙げろと言われれば「リベラル」と答える。

リベラル(Liberal)は英単語だが、自分がリベラルであることを日本語で話すなら「わたしは自由主義(リベラル)です」となる。自由主義者からすると「好きなように生きるのを邪魔しないでくれ、法律は守るんだから」という感覚に近い。ここに政治性を帯びた「保守」や「リベラル」の説明を加えるとややこしくなる。

アメリカで政治的な意味での「保守」は、急速な変化を嫌い、国の伝統的な道徳(宗教)を維持することを望み、経済では自由な資本主義を好む傾向にある人たち。一方で、リベラルは変化をいとわず、医療や学校へのアクセスも含め、国が経済的規制をかけてでも社会の平等と正義を求める傾向にある人たちのこと。

こう書くと「もはや自分とは遠い話だ」と思う人のほうが日本では多くなるのかもしれない。実際、筆者自身も日本にいるときはリベラルがよくわからなかった。保守の逆(仲の悪い夫婦のように日本では野党が与党の反対ばかりしているので逆)くらいの位置づけだった。そしてニューヨークに来て数年は気づくこともなかった。ニューヨークがリベラルな街であることを。

日本で「リベラル」は、いちおう保守の対極に置かれている。しかし、国家の伝統を重視する保守はわかりやすいが、日本でリベラルを正しく理解している人は少ないのではないだろうか。人によっては、リベラル=反日、としてしまっている。上述の通り、アメリカでは保守もリベラルも政治的には「国を良くするため」のアプローチの違いにすぎないのだが…。

もちろん、ニューヨークの人たちは、自分たちを「愛国心がない無国籍な地球市民」としているわけではない。個人から地域、そして国家までの意識は緩やかなカーブを描くように繋がっている。ただし、ニューヨークの根本にあるのはリベラル(自由主義)。もはや伝統的と言っていいだろう。この点が伝わるようにThe Tokyo Postで書いていく。

 リベラルな街から ©笹野大輔/The Tokyo post
 リベラルな街から ©笹野大輔/The Tokyo post

ニューヨークについて語れば「リベラル」が香る

ニューヨークには根っからのニューヨーク市民も住んでいれば、アメリカの地方からニューヨークに移住している人もいる。そして外国人や移民たち、移民の二世、三世たちが混ざり合って暮らしている。大都市で外国人も多いという意味においては、東京とニューヨークにそう大きな変わりはないはずだ。

アメリカ全体に視点を移すと、ニューヨーク州やカリフォルニア州ではリベラルが多く、ミシシッピー州やワイオミング州では保守が多い。つまり、人口が多い都市はリベラル、少ない都市は保守の傾向が強くなっている。だが、日本でそうはなっていない。きっと社会としては成熟していても、リベラルが育っていないのだろう。

The Tokyo Postは、社会課題を提起し、“対話”を通じた合意形成による課題解決のアジェンダセッティングをしていく“合意形成プラットフォーム”とあり、立ち上げた際の編集長・菅野志桜里氏のメッセージ1行目には「論破の先は焼け野原。だから、論破より対話。対話から合意形成」とある。

今後筆者はThe Tokyo Postで、ニューヨークのカルチャーを中心に伝えることにしている。ただ、その際に事象を捉えて「これがリベラルだ」と書くつもりはない。自然に書けばどこからかリベラルの香りがしてくるはずだからだ。その香りの元をたどって行き、リベラルが実現している街とはどういうことなのか、と考える。そこに対話が生まれるのではないだろうか。

また、ニューヨークからの連載を読み「この文化は日本になじまない」「これは日本では無理だと思う」「良い・悪い」「知っていた・知らなかった」だけではなく、「なぜなのか」と自らに問うことで、対話からいつか日本で役立つような合意形成に繋がることを期待している。