「国葬」ニュース見出し 画像:shutterstock
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国葬は必要か? 私が今日まで沈黙した理由【菅野志桜里】

今日、安倍元総理の国葬が執り行われました。この間、安倍元総理の「国葬」についての意見を聞かれることが幾度かあったのですが、発言を控えていました。

私は、国会質疑以外に安倍元総理との接点はほとんどありません。ただ、同じ職場で、生身の人間同士議論をしてきた、その人が殺されて亡くなったということをまずは個人的に内的に受け止める時間が必要でした。

そして何より、故人が歴史の一部になる手前の、まだその死が生々しい時点で何かコメントして、故人の業績に通信簿をつけるようなことをしたくないと感じていました。

その上で、令和4年9月27日、国葬が執り行われた今、改めて思うことがあります。

「〇〇氏は国葬に値するか」という問いが立つ不毛

誰かが亡くなって間もない段階で、「○○氏は国葬に値するか」という問いが立ってしまうような状況をつくるのはやめませんか。

言い換えれば、「大喪の礼」以外の国葬はしないことにしませんかという提案です。

国葬の法的根拠の要否を議論する前に、そうした国葬そのものを続けるのかどうかきちんと考えませんか、という呼びかけでもあります。

国葬の根拠法はない方がいいのか、ある方がいいのか

いま、国葬の法的整理として、「法的根拠が必要不可欠とはいえないが、民主主義の観点からは根拠法がつくられることが望ましい」という見解があります。もし、「今後も大喪の礼以外にも国葬を続ける」という前提に立つならば、私はこの見解に賛成です。

この点、特別の根拠法がないままに国葬が行われている国もあり、日本でも今後も立法せずに国葬を行うことは法的には可能なんだろうと思います。たとえば、9月7日のNHK報道によると、アメリカ・オーストラリア・イギリスなどは慣例で、南アフリカはマニュアルで、中国も法律の規定はなしに国葬が行われている一方、韓国は「国家葬」として明確な根拠法を持つとされています。

おそらく、個々の「国葬」の是非をギリギリ議論するというようなことを避けるため、米・豪・英などはあえて法律を作らず、慣例という知恵を使っている面もあるのでしょう。また、韓国にしても、現職大統領が判断するという法律になっているようです。

ただ、ひるがえって日本の現状をみたとき、今回の「国葬」でここまで国民の賛否が割れてしまった以上、慣例で安定的に国葬を継続することはほぼ不可能。根拠法をもとに国民の理解を調達する手立てを講じない限り、事実上今後国葬を行うことは難しいでしょう。

「国葬新法は国葬を安定化させるのか?」をシミュレーションしてみる

それでは、「国葬新法」をつくれば、本当に今後、安定した国葬の実施が可能になるのでしょうか?タイプ1とタイプ2で分けて考えてみます。

<タイプ1:中身のある要件をつくる場合>

それなりに中身のある根拠法としては、例えば❶「特別な功労がある」などの実質的な要件と❷「国会の決議」あるいは「三権の長(衆議院と参議院の両議長・最高裁判所長官・内閣総理大臣)の合意」などの手続的な要件をあわせて定めるということが考えられます。

仮にこうした根拠法のもとで、ある特定の人物の国葬が持ち上がった場合、❶「○○には特別な功労があったといえるのか」という点が議論され、❷その点に関して、政治家なり政党なり各三権の長なりの「賛否」が何らかの形で明らかにされることになります。

たしかに「手続きが曖昧だ」という批判は避けやすくなるでしょう。

ただし、その手続きの過程で、まさに「○○氏は国葬に値するか」という故人への通信簿がリアルに公に議論されることになります。

しかし、○○氏が政治家であれ、芸術家であれ、スポーツ選手であれ、亡くなって間もない故人をこうした議論にさらすのは、日本の社会風土にはそぐわないのではないでしょうか。人間同士色々あるけれど、せめて故人を悼み遺族を支えようという、日本社会が培ってきたどっしりとした合意に傷がつくのではないでしょうか。

もう少し踏み込んで考えると、今後そんな「国葬新法」ができたとして、故人を厳しい議論に晒すこと覚悟で国葬提起がなされる場面は考えられない気がします。ご遺族の意向も含めると、「国葬新法」の制定は、事実上国葬廃止の効果をもたらすのではないでしょうか。

<タイプ2:中身の薄い要件をつくる場合>

では、議論を必要としないような制度設計はどうでしょう。例えば、「内閣の一存で国葬実施を決められる」ということを法律で決める、あるいは内閣の説明責任や国会報告だけを規定するという選択肢です。今の岸田政権の姿勢を法定化すると言い換えてもいいかもしれません。

ただ、今問題となっているのは、まさに基準もなく内閣の一存で国葬が決定され、国民の疑問に対して説得力ある説明もないために、国家としてとても不安定なかたちで国葬が行われているという状況です。こうした姿勢を法律で上書きしても、次回の国葬は安定しないし、この法定化そのものにまた大きな世論の反対が巻き起こってしまいそうです。

だとすると、こちらの「国葬新法」も解決になりそうにありません。

国民的合意が得られるのは「大喪の礼」だけでは?

結局、中身がどうあれ、「国葬新法」による事態の改善は見い出しにくいというのが、今の時点での私の意見です。

そもそも、「特定の人の死を国家として特別に悼む」ときには、評価を控えるべきときに評価せざるを得ないという根本的な問題が起きます。国民栄誉賞や叙勲などの場面とは違う難しさを持つ点です。

評価せずとも国民的合意を調達できるのは、結局のところ、天皇そして上皇の「大喪の礼」に限られるのではないでしょうか。それは、「人」に焦点をあてるのではなく「立場」に焦点をあてた制度だからであり、様々な方のご努力のもと皇室制度自体が今なお安定した国民的合意に支えられているからだと思います。

そのように考えると、結局、国葬は「大喪の礼」に限るのが自然かつ現実的ということになってくるのではないでしょうか。

いずれにしても、そもそも国葬は必要なのか、安定した国葬は可能なのか、という観点から、落ち着いた議論に付されることが必要です。

ただ、今回の国葬決定の理由に「弔問外交」を挙げたのは大変よくなかったということを付記しておきます。国家への功績をたたえて国家として弔うと決断したなら、海外からの要人で誰が来るとか来ないとか、諸外国の判断に成果が左右されるような理屈付けをするべきでなかった、国家として軽率だったと、岸田政権にはその点も反省としてほしいと思います。

「国家と国民が交わる場」の設定が苦手な日本社会

最後に、9月27日、私自身は国葬への出席を遠慮させて頂きました。「元衆議院議員」としてお呼びかけ頂いたけれど、今は私人だし、「元」の立場で公的な儀式に参加するのが余り好きではないので。ただ、私なりに静かに安倍元総理の死を悼みつつ、考えをまとめて過ごしました。

国葬が終わり、いよいよ制度の議論になるかもしれないので、少しでもその一助になればと思って記したのが、この文章です。

「国葬」はこれまで議論されてこなかったけれど、9条や皇室制度などと並んで、国家と国民が交わる重要なテーマです。日本は、国家と国民が交わる場の設定が苦手な社会かもしれませんが、避けては通れません。

だからこそ私は、国家に国民が組み込まれるのではなく、国民ひとりひとりが自分の中に国家観を持ち、自分自身が国家の主権者である意識を持つことが大事だと考えていますが、この話はまた別の機会に。

最後までお読み頂きありがとうございました。

菅野志桜里
宮城県仙台市生まれ、武蔵野市で育つ。小6、中1に初代「アニー」を演じる。東京大学法学部卒。元検察官。2009年の総選挙に初当選し、3期10年衆議院議員を務める。待機児童問題や皇位継承問題、検察庁定年延長問題の解決などに取り組む。憲法審査会において憲法改正に向けた論点整理を示すなど積極的に発言(2018年「立憲的改憲」(ちくま新書)を出版)。2019年の香港抗議行動をきっかけに対中政策、人道(人権)外交に注力。初代共同会長として、対中政策に関する国会議員連盟(JPAC)、人権外交を超党派で考える議員連盟の創設に寄与。IPAC(Inter-Parliamentary Alliance on China)初代共同議長。2021年11月、一般社団法人国際人道プラットフォームを立ち上げ代表理事に就任。