憲法改正の予兆高まるなか、「天皇・皇室」の在り方について議論の時がいよいよ近づいている。天皇制は、憲法解釈や人権問題などあらゆるイデオロギーを内包しつつ、繊細にバランスをとりながら継承されている。いま天皇制を議論することは、日本が選択する民主主義の形を確認する作業に近いのかもしれない。皇室の論壇最前列の高森明勅氏による天皇論。
政治学者で日本政治思想史の研究者だった丸山真男氏の「『である』ことと『する』こと」というよく知られた文章がある(『日本の思想』所収)。そこでの丸山氏の本来の趣旨とどれだけ合致するかいささか心もとないが、ひとまずその価値が“存在自体や属性(=である)”によって判断されるか、それとも“機能や働き(=する)”によって判断されるか、という一般的な判断基準の2つの類型を設けた上で、これを天皇・皇室に当てはめた場合にどうなるかについて、少し考えてみよう。
天皇は国事行為だけをすればよいのか?
天皇は憲法によって「日本国の象徴であり日本国民統合の象徴」“である”と規定されている(第1条)。したがって、その存在それ自体として尊重されるべきである、という考え方が一方においてあり得る。
そのような考え方に立てば、天皇は憲法に列挙されている13種類の国事行為を行っていれば、それで十分ということになる。それで、もし天皇が未成年だったり心身の「重患」や高齢化による極度の衰えがあったりすれば、国事行為を全面的に代行する「摂政」を置けばよい(憲法第5条・皇室典範第16条)との結論に行き着く。
上皇陛下が平成28年8月8日のビデオメッセージでご退位への希望をにじませられた時に、保守系の一部の論者から摂政の設置によって、現行の皇室典範に規定がない退位を回避すべきだという論が出されたのは、主に「である」的価値観に基づく。
国民統合の象徴としての務め
しかし、上皇陛下ご自身のお考えは違った。
憲法に「象徴」と規定されているのは、単に「象徴“である”」という事実の記述ではない。「象徴であるべし」「象徴にふさわしく行動“する”べし」という規範の提示に他ならない。そうであれば、“象徴としての務め”を果たしてこそ真に「象徴」たり得る―という受け止め方だ。
とくに「日本国民統合の象徴」であるためには、実際に国民の“統合”に貢献する役割を全身全霊で果たさなければならない、との考え方だ。
そのような考え方に立って、平成時代に上皇陛下は自らに課された多くの務めを成し遂げてこられた(国事行為以外の公的行為など)。
たとえば、ほとんど前例がなかった被災地に赴かれて直接、一人一人の被災者の声に耳を傾け、慰め励まされることを重ねられた。
また、国の内外の戦跡に出向かれて「慰霊の旅」を続けられた。あるいは、さまざまな障害を持つ人々に手を差し伸べ、最も苛酷な差別に苦しまれた元ハンセン病患者に心を寄せ、国内にあるすべての療養施設の収容者にお会いになった。
これらは、「天皇」「象徴」“である”という存在・属性のみに自足していては決して真に国民の敬愛の対象であるべき「天皇」「象徴」たり得ることはかなわなず、必ずそれにふさわしく行動“する”ことが欠かせない、という厳しい自覚によるご献身だった。
退位という選択肢
その延長線上にあったのが、高齢化によってそのような「天皇」「象徴」としての務めを十分に行えなくなった場合は、務めを優先して皇位を若い世代に譲るべきだという決断だった。
上皇陛下のご退位の背後にあったのは、天皇像・皇室像における「である」メインから「する」メインへのドラスティックな価値観の転換だ。上皇陛下のビデオメッセージに対して、国民から孤立した一握りの保守系論者が異様なまでに反発したのは、そのことを無意識のうちに感じ取ったためだろう。
もちろん、象徴天皇をめぐる制度が「世襲」(憲法第2条)をベースにする以上、「である」的価値観を全面的に排除することはできない。
しかし、そこからただちに「する」的価値観が無用であるとか、有害であるとかという間違った考え方に短絡してはならない、というのが上皇陛下のお考えだったはずだ。そのことを誰よりも正確に理解されているのが今上(きんじょう)陛下でいらっしゃることは、改めて申し上げるまでもあるまい。