菅野志桜里
菅野志桜里 The tokyo Post編集長

ブチャの遺体に何も言えない日本~ジェノサイド条約加盟に向けた具体策~【ウクライナ侵略】

『The Tokyo Post』編集長・菅野志桜里による日本政府への政策提言。ウクライナの首都キーウ近郊のブチャで、民間人虐殺の戦争犯罪が行われた疑いが濃厚だ。ジェノサイドの可能性も指摘されるなか、ジェノサイド条約に加盟すらしていない日本が今やるべきこととは。条約加盟に向けた具体策を提言する。

ブチャの遺体が語ること

ウクライナの首都キーウ近郊のブチャ。

ロシア軍敗走のあと、ブチャの道路や地下室で発見された遺体は、その存在のすべてで「ロシア兵は、私を民間人だと分かっていながら殺した」と訴えているようにみえました。

遺体の手首を拘束した白い布は脅迫・拷問の存在を、遺体の隣にある日用品袋や自転車は民間人をターゲットにした殺害者の故意を、遺体の頭部を貫いた銃弾の跡は明確な殺意の存在を、それぞれはっきりと裏付けています。

この殺戮行為が、民間人殺害を禁じる国際人道法違反の戦争犯罪であることは間違いない。多くの人にこうした確信を抱かせる映像でした。

そして、このロシア軍による戦争犯罪を司法の場で裁きにかけるため、ウクライナをはじめ世界各国が速やかに証拠の収集と保全を開始しました。

EUはウクライナ検察当局と合同捜査チームを立ち上げ、カナダは捜査官チームの派遣を発表。アメリカは衛星や偵察機などで集めた情報を証拠として提供し、イギリスはウクライナ政府を支援する法律顧問を任命しました。

あわせて、ウクライナはこのブチャでの殺戮行為に関与した可能性があるロシア兵1,600人余りの名簿の公開に踏み切っています。

このブチャの映像を「西側の演出」と説明するロシア当局に対し、西側諸国は、異例のスピードと協力体制で捜査を開始し、戦争犯罪の真実を歴史にとどめるためのあらゆる努力を実行に移そうとしています。

戦争犯罪を超えてジェノサイドにあたるのか

さらに、こうした民間人殺害がボロディアンカでも疑われるなど、ブチャが氷山の一角に過ぎない可能性も指摘されるなか、現地に視察に入ったゼレンスキー大統領は「これは戦争犯罪であり『ジェノサイド』だと世界は認めるべきだ」と訴えました。

他方、米国はじめ西側諸国は、今回の件がジェノサイドにあたるかどうかについては判断を留保しているのが現状です。

ブチャにおける民間人への殺戮行為が、戦争犯罪を超えて、特定の属性集団を意図的に抹消する行為、すなわちジェノサイドであると認定されるかどうかは、その他の地域も含めた今後の捜査を待つことになるでしょう。

ただ、ここで私たちは日本の課題に目を向ける必要があります。

そもそも日本にはジェノサイドを犯罪化する法律すらなく、ジェノサイド条約に加盟もしていないという課題です。

ジェノサイド、そしてジェノサイド条約とはなにか

そもそもジェノサイドとは何を意味するのでしょうか。

1948年に国連総会で採択されたジェノサイド条約。この条約の第2条がジェノサイドとは何かを語っています。

ジェノサイドとは「国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を集団それ自体として破壊する意図をもって行われる次のいずれかの行為」であり、その5つの行為とは、

①集団の構成員を殺すこと

②集団の構成員に重大な肉体的または精神的な危害を加えること

③全部または一部の身体的破壊をもたらすよう企てられた生活状況を故意に集団に課すこと

④集団内の出生を妨げることを意図する措置を課すこと

⑤集団の子どもを他の集団に強制的に移住させること。

※ジェノサイド条約 ジェノサイドの定義(第2条)より

このように定められているわけです。

このジェノサイド条約には、ロシアやウクライナそして中国や北朝鮮も含め150か国以上が加盟していますが、先に書いたとおり、日本は加盟していません。

ウイグルでの強制労働・強制収用・強制不妊治療の問題、あるいはミャンマーにおけるロヒンギャ族への弾圧の問題なども含めて、日本政府が「ジェノサイド」疑惑について常に後ろ向きの姿勢を示す原因の一端がここにあります。

また、今回のウクライナの件でも、ジェノサイド該当性が国際社会の大きな論点として浮上する可能性があるなか、そもそも条約に加盟していない日本の発信に議論のリード役を期待することは残念ながら難しい。

何より、北朝鮮や中国のようにかなり法体系や価値観が違う国ですら加盟しているこの条約に、日本が加盟していない状態は恥ずべきことで、一刻も早く加盟すべきです。

日本政府は加盟していない理由をどう説明しているのでしょうか?そして加盟するための解決策はあるのでしょうか?

国会議員としてこのテーマで質問を重ねてきた経験からいえば、日本政府の説明はやらない言い訳にすぎず、加盟するための解決策はあります。

日本がジェノサイド条約に加盟していない理由

まず、日本政府の説明をみてみましょう。

そもそもジェノサイド条約加盟国には、条約に沿って国内法でジェノサイドを犯罪化することが求められます。そしてジェノサイド条約は、ジェノサイドにあたる5つの行動類型について、実際に行った人だけでなく、共謀した人や扇動した人も処罰することを求めているのです。

それを前提に、日本政府の弁解を一言でいうと、「日本の刑法には、ジェノサイドの『共謀』や『扇動』を処罰する規定がないので加盟が難しい」ということになります。

たとえば2021年5月14日の外務委員会の質疑。私の質問に対して茂木敏光外務大臣(当時)はこう答えています。

「共同謀議、扇動というもの、これを国内法でどうしていくかという問題、外務省だけじゃなく法務省も絡んでくるわけでありまして、それについて立法措置をとるかどうか。非常に大きな判断になってくると思います」

このとき茂木大臣は、テロ等準備罪における国会議論を例に出し、あの時ですらものすごく大変だったのに、ジェノサイドについて共謀や扇動を罰する法律をつくるのはもっと大変、こんな答弁をしていました。

日本政府の言い訳には説得力があるのか

この茂木大臣の弁解には、どの程度の説得力があるのでしょうか。

テロ等準備罪の議論で反対の論陣の先頭にたっていた私からすれば、大変おかしな理屈だと感じました。

あのとき政府は、新しくテロ等準備罪をつくらないとTOC条約(国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約)に加盟できないんだと説明していましたが、ちょっと考えてみてください。

TOC条約に入るためという理由で十分国内法でカバーできている犯罪についてわざわざ新法(テロ等準備罪)をつくるよりも、そもそも国内法でカバーできていないジェノサイドについて必要な新法(ジェノサイド罪)をつくりジェノサイド条約に入る。このことの方がよほど有益ではないでしょうか。

実際、テロ等準備罪は今もなお、1件も捜査も起訴もされていません。これは、テロ等の共謀はすでに国内の個別法でカバーされているから新法は必要ないという当時の主張を一定程度裏付ける事実です。そして元からある個別法でカバーできているのであれば、政府は国連に対し、わざわざ新法を作らなくても我が国の国内法は条約の求めにしっかり対応できていますと毅然と説明するべきでした。そうすることでTOC条約に加盟できていた可能性も十分にあります。

他方、ジェノサイドは、日本の刑法では犯罪化されていません。

この点について政府側担当者とやりとりした際、ジェノサイドは殺人の集合体と考えられるという発言も過去にあったのですが、これをきいたとき、国際社会がジェノサイドを厳罰に処している理由を日本政府は理解しているのだろうか、と驚いた記憶があります。

ある行為を犯罪だと定めて処罰する法律をつくる際、その法律が守ろうとする価値を保護法益といいますが、殺人罪の保護法益は個人の生命です。

一方ジェノサイドの保護法益は特定の集団です。

このふたつの違いは明確で、ノルウェー刑法の殺人罪でルワンダにおけるジェノサイドを裁けるかということが論点となったルワンダ国際戦犯法廷でも、次のように指摘されています。

「ジェノサイドと殺人罪とは、その構成要件およびその重大性の点において決定的に異なるものであるということを適示する」

「ジェノサイドが『国民的、民族的、人種的又は宗教的な集団の全部又は一部に対し、その集団自体を破壊する意図』を要求しているという点で、独自の犯罪であることを指摘する」「この特別な意図は、ノルウェー刑法上の殺人罪の場合には要件とされていない」

「したがって、ミシェル・バガラガサ(被疑者)の犯罪行為についてノルウェー刑法では十全な法的評価を下すことはできない」

この「集団自体を破壊する意図」の存在がジェノサイド認定の大きなハードルにもなるわけですが(そして今回のブチャの件でも各国が判断を留保する所以でもありますが)、日本の刑法の殺人罪に関しても当然この意図は要件とされていません。したがってノルウェー同様、法整備が不足している、ジェノサイドは殺人罪では賄えませんよと指摘される可能性は十分にあります。

ジェノサイド条約に加盟するためには

そこで、ジェノサイド条約に加盟するための解決策が必要です。

加盟すること自体に反対をする人には会ったことがないので、解決策こそが待たれているのだろうと思います。

端的にいえば、日本の刑法にジェノサイド罪を新設し、「共謀」や「扇動」が含まれない点については日本の法体系を尊重してくださいと留保して加盟する。

これが最も筋がいいのではないかと思います。

なぜか日本政府は、ジェノサイド罪そのものは殺人罪の集合体で賄えると考え、「共謀」や「扇動」については新設しないと加盟できない。こういう見方をしているわけですが、これまで書いてきたことから、むしろ逆ではないかと理解して頂けるのではないかと思います。

そして実際、ジェノサイド条約加盟国のうち約5分の1にあたる30か国(米国含む)が何らかの留保をつけているのです。

この答弁を引き出した際、政府は、留保はしていても共謀とか扇動に留保をつけている国はないのですと説明していましたが、それなら日本初で留保をつければよい。

ジェノサイド条約の本質は、特定の属性集団を故意に抹消する犯罪を厳罰に処することで、個人の生命に吸収しきれない集団のアイデンティティを守ることです。

この本質を各国が共通して保護することこそがジェノサイド条約の目的であって、共犯の範囲をどう定めるかは一定程度までは各国の法体系に委ねられてしかるべきです。

ぜひ日本の政府には、自国の法体系の長所は生かし不備は補い、国際法と国内法のギャップをしっかり埋めて行ってほしい。

人権という価値を欧米諸国の専売特許にせず、アジアの実力ある人権国家としての役割を果たすため、ジェノサイド条約への加盟に向けた具体的な検討を強く強く求めます。