憲法改正の予兆高まるなか、「天皇・皇室」の在り方について議論の時がいよいよ近づいている。天皇制は、憲法解釈や人権問題などあらゆるイデオロギーを内包しつつ、繊細にバランスをとりながら継承されている。いま天皇制を議論することは、日本が選択する民主主義の形を確認する作業に近いのかもしれない。皇室の論壇最前列の高森明勅氏による天皇論。
皇室をめぐる議論について、かねて気になっていることがある。それは、政治的な立場の違いに関わりなく、皇室を構成しておられる当事者の方々の“人間としてのお気持ち”への想像力が極端に乏しいか、ほとんど抜け落ちているように見える、という点だ。
皇室の当事者への“まなざし”
たとえば、上皇陛下がご退位を希望しておられる内心をにじませたビデオメッセージを公表された際(平成28年8月8日)、圧倒的多数の国民はそのお気持ちを素直に受け入れたのに対し、一部の「保守」系の論者たちが猛烈に反発した一幕があった。皇室を公然と論じている者たちほど、当事者への“まなざし”が欠けている、という逆転現象が浮き彫りになった。
「エスプリ・ドゥ・コール」の大切さ
この点について、傾聴すべき指摘があるので、その一部を紹介する。
「官僚制にせよ、大学の自治にせよ…当の制度を担い、支えるメンバーのエスプリ・ドゥ・コール(esprit de corps)なしには、そもそも存続し得ない。…天皇制および皇室制度を持続的に支えようとする皇族に共有される精神、つまりエスプリ・ドゥ・コールが失われれば、退位の自由を含めた『(皇室からの)脱出の自由』を否定したとしても、現在の姿の天皇制および皇室制度を維持することはおぼつかない」
(長谷部恭男氏「奥平康弘『「万世一系」の研究』(上)解説」)
見逃されがちなポイントをうまく言い当てた、大切な指摘だろう。近来、関心を集める皇位継承をめぐる制度の見直しがもしベストな形で決着しても、皇室の方々から肝心な「エスプリ・ドゥ・コール」が失われてしまえば、憲法や皇室典範にどのようなことが書かれていても、天皇・皇室をめぐる制度は維持できなくなるだろう。
皇室の方々の「自由と人権」をめぐる憲法学説
それを踏まえて、皇室の方々のエスプリ・ドゥ・コールを損ねかねない問題点に目を向ける必要がある。それが、冒頭に触れた当事者の方々の人間としてのお気持ちへの配慮の希薄さだ。
皇室の方々は、憲法が国民に保障する「自由と人権」が大幅に制約される一方、さまざまなストレスにさらされる生活を余儀なくされている。にもかかわらず、その事実に対してほとんど関心が持たれていない、という状況がある。特に見逃せないのは、自由と人権に敏感であるべき憲法学界の見方も、皇室の方々の「自由と人権」に対しては、否定的になっている点だ。
憲法学の以前の通説は、天皇も皇族も“人権の享有主体”である「国民」に含まれるという解釈をした上で、ただし憲法が定める象徴制・世襲制による特別扱いはやむを得ない、という見方だった(宮沢俊義氏・佐藤功氏・芦部信喜氏ら)。
しかし今や、天皇も皇族も国民とは区別された特別な存在であって、そもそも人権の享有主体では“ない”、というのが新しい通説になっているようだ(佐藤幸治氏・長谷部恭男氏ら)。たとえば、次のような考え方だ。
「日本国憲法の作りだした政治体制は、平等な個人の創出を貫徹せず、世襲の天皇制(憲法2条)という身分制の『飛び地』を残した。残したことの是非はともかく、現に憲法がそのような決断を下した以上、『飛び地』の中の天皇に人類普遍の人権が認められず、その身分に即した特権と義務のみがあるのも、当然のことである」
(長谷部恭男氏『憲法〔第5版〕』)
自由と人権への制約は必要最小限
しかし、人権は本来、国家以前、憲法以前の権利であって、全ての人間が、人間の尊厳に基づいて持っている、固有の権利だったはずだ。
“飛び地”という気のきいた比喩を過剰に実体化して、たとえば「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない」(憲法18条)という権利さえ認めないといった解釈は、到底、許容できないだろう。
皇室の方々が国民とは区別された特別な存在ということは認められても、当事者の方々の自由と人権への制約は、あくまでも「それが世襲の象徴天皇制を維持するうえで最小限必要なもの」(佐藤幸治氏『日本国憲法論』)という限定付きでなければならない。
制約を「当然のこと」と自明視する態度が一般化するようでは、天皇・皇室をめぐる制度を支えるために欠かせない、当事者の方々のエスプリ・ドゥ・コールはやがて失われてしまうだろう。