〈前編〉「北朝鮮の人権問題」対談〈井形彬×菅野志桜里〉
北朝鮮による日本人拉致や核開発問題の解決の糸口が見えない中、2022年8月24日、東京大学先端科学技術研究センターで、北朝鮮国内での人権侵害をテーマにしたシンポジウムが開かれた。人権侵害の実態を報告したのは、ロンドンに本部を置く国際NGO「コリアフューチャー」で、団体では約1年前から脱北者にインタビューし、監獄や拘置所などの様子や暴行や強制労働などの被害をデータベース化している。このシンポジムの開催に携わった同センターの井形彬特任講師に菅野志桜里が北朝鮮の人権侵害の実態について聞いた。
◆菅野志桜里(The Tokyo Post編集長)
脱北者へのインタビューをもとにデータベース化
菅野: 北朝鮮国内での人権侵害というテーマが日本でクローズアップされることは珍しいですよね。今回、データベースを公開したコリアフューチャーという団体について教えてください。
井形: ロンドンに本部を置くNGOで、オランダのハーグや韓国・ソウルにも支部を置く比較的新しい団体です。北朝鮮の人権抑圧などを監視しています。北朝鮮による人権侵害と聞くと、日本人はまず拉致問題を思い浮かべるでしょうし、他の国の人たちも自国の人たちが受けた人権侵害を考えると思うのですが、この団体は北朝鮮国内で行われている人権侵害に目を向けています。
今回の「北朝鮮監獄データベース」は、4年計画で進めているプロジェクトなのですが、北朝鮮から逃げ出した、いわゆる「脱北者」に話を聞いて北朝鮮国内の人権侵害の状況を明らかにしようとするものです。
北朝鮮国内の人権侵害は、今になって分かったことではなく、昔からそうした情報はもたらされてきたのですが、断片的な話が伝わってくるだけで、全体像まではなかなか把握できなかった。そこで、数字や画像を使って目に見える形で実態を明らかにし、北朝鮮政府の責任を明確にしていこうというのが目的です。
菅野: 今回、どのような経緯で、日本でデータベースを公開することになったのですか。
井形: 4年計画のプロジェクトの1年目が終わりそうな時期に来たので、今後、どのような形でデータベースを活用していけばいいのか、ということを日本のNGOや研究者、政府関係者から意見を聞きたいという話がありまして、そこで、私も加わって東京大学先端科学技術研究センターのルール形成戦略分野と共催でシンポジウムを開くことになりました。
この1年で韓国にいる脱北者、だいたい250人から260人にインタビューしています。今後もさらにインタビューを続けて、データベースを充実していく予定だそうです。
菅野: プロジェクト開始のきっかけとなる出来事が何かあったのでしょうか。
井形: 2013年に国連人権理事会が「北朝鮮における人権に関する国連調査委員会(COI)」を設置して以来、人権侵害を行う当事者にどう責任を負わせるのかが焦点となっていました。今までも北朝鮮国内における人権侵害について明らかにしてきた団体は多くありましたが、いずれも被害者などの証言をとりまとめたに過ぎないものです。これだけでは実際に国際裁判所で審議されたとしても証拠として法的基準を満たしません。よって、今回は国際法の専門家も交えながら、司法の場で証拠として認められる基準を満たす形で人権侵害をデータベース化するプロジェクトに着手しました。
菅野: 井形さんはどんな形でプロジェクトに関わっているのですか。
井形: 私は直接的にデータベース構築そのものには関わっていません。ただし、今後の日本の人権外交の在り方を考える上でこの内容は日本の人たちにも紹介すべきものだと思い、会場の設定など準備を行い、シンポジウムのモデレーターも務めました。おそらく、日本で脱北者に関するこのようなデータベースが公開されるのは今回が初めてでしょう。
音を立てただけで殴られる過酷な仕打ち
菅野: 8月24日のシンポジウムには、どのような方たちが集まったのですか。
井形: あまり詳しくは言えないのですが、国際法や国際政治に関心がある研究者や学生、各種メディアやNGO関係者、各国の在日大使館、在日朝鮮人の方もいて、幅広く北朝鮮問題や人権問題に関心のある人たちという感じでした。
盛んに議論されたのは、強制労働の問題でした。北朝鮮の強制労働で作られたものが、中国に入って、そこから国際的なサプライチェーンに流れているのではないか、という疑念から、今話題になっている人権デューデリジェンスとの関係も指摘されました。
菅野: 北朝鮮の産品は、主に中国を通じてサプライチェーンに乗るという形が顕著なんでしょうか。
井形: 基本的には、そうした流れですよね。
菅野: 韓国からのルートというのはないのですか。
井形: 少し昔であれば開城(ケソン)工業団地で、韓国と北朝鮮で共同生産していた製品もありましたが、南北関係の悪化で南北連絡事務所が北朝鮮に爆破されて以降、今は完全に閉まっています。再開する予定もないので、北朝鮮から製品が流れるのであれば、ほぼ中国経由だろうということでしたね。
菅野: シンポジウムでの資料をいただいたのですが、意外だったのが人権侵害の件数です。円グラフで示されたものなんですが、これだけみると減少傾向のようにも見えます。
井形: 今回のデータベースでまとめられているものは、2000年から2011年までと、2012から2019年に分けられているのですが、2000年から11年までの人権侵害のほうが、12年から19年にかけての人権侵害より圧倒的に多い。このグラフで示されている通り、件数の割合でいえば、2000年から11年までの件数は全体の7割近くを占めていて、2012年以降の件数は3割程度と大きく減少している。これについては、僕も北朝鮮の人権侵害は緩和されているのか、と気になって突っ込んで聞いてみました。
菅野: 私もすぐに気が付いて、資料に付箋を付けたんですけど。
井形: これに関しては、まだ250人程度しかインタビューをしていないので、データが少ない、もっと調査が必要だというのが前提です。そのうえで、この団体が言っていたのは、90年代から2000年代にかけて、脱北者が海外に逃亡した後にいろいろなことをメディアに話したことが影響しているのではないか、ということでした。「こんなにひどいことが起こっているんだ」「こんな不正義が起きているんだ」ということを脱北者が告白したがために、それまでは1回監獄に入れられても、またしばらくすると出してもらえていたのが、もしかしたら北朝鮮政府が「監獄から出すと、脱北していろいろしゃべられる」と恐れて、監獄に入れた人を外に出さない方針になったのかもしれない。そんな見方をする人もいましたね。
菅野: 出さないということは、監獄に入れたまま口封じということですよね。
井形: そうですね。さらにひどいのは、監獄の中の様子ですよね。衛星写真や中にいた人たちの証言をもとに、監獄内のレイアウトや様子をビジュアル化したものも資料の中にあるのですが、かなり劣悪な状況です。
菅野: 狭い場所に、収容者がぎっしり押し込められていますよね。
井形: そうですね。1つの部屋に8人とか9人とか押し込められて、図にあるように、あぐらをかいて座っていなければならないんです。ずっと同じ場所にいて動いてはいけないらしく、許可なく動いたり音を立てたりすると、看守が中に入ってきて、ひどくたたかれるそうです。
建物内の中央に細長い部分がありますが、そこは屋根がない広場になっていて、ちょっとした体操などができるようになっています。でも、そこに出してもらえるのは、数週間に1回程度で、あとはぎっしりとすし詰め状態で部屋の中にいなくてはならない。
「脱北」や「闇市」だけでなく「占い」でも逮捕
菅野: 刑務所や収容所というものは日本をはじめ、どの国にもありますが、この北朝鮮の監獄の、他の国々と比べて特異な点を教えていただけますか。
井形: 収容者の処遇という話からすると、やはり食べ物や水は十分に与えられていません。水は、飲料水だけでなく、シャワーからトイレまで、「全部で1日これだけ」という形になっていて、本当に少量しか渡されない。もちろんクーラーやヒーターもなく、先ほど話したように体を動かすことさえ制限されている。本当にあらゆる面で劣悪な環境です。
それと、収容されるまでの過程ですよね。民主主義の国では、何か罪に問われれば裁判を受けて、そこで有罪になれば刑務所などに入れられるわけですが、北朝鮮では法に基づいた手続きがない。一応、「こんな罪を犯した」などと言われることはあるのですが、誰かの独断で罪人にされてしまう。
あとは、ちょっと個人的に注目したのが、superstitionの禁止というのが、北朝鮮の刑法にあるんです。日本語で言うと「占い」ですか。
菅野: 迷信?
井形: そう、迷信ですね。迷信を信じるのは違法行為で、これに違反したために監獄に入れられている人がすごく多いんです。
菅野: 具体的には、政府は何をおそれて何を防ごうとしているんしょうか。
井形: 聞いてみたら、北朝鮮では占いが流行しているそうです。いろいろな理由があると思うのですが、おそらく、閉鎖的な社会、権威主義国家の中で、なかなか将来の夢とか未来が見いだせず、占いに頼る人が多いのでしょう。占い師に話を聞きに行く人も多いそうです。
しかし政府は、占い師が脱北の手助けをしているのではないかと疑っているらしい。「あなたは逃げ出すべきだ」とか、「中国の国境のこっちの方向に走ればいい」などと、占い師が脱北を間接的に支援しているのではないかと見ているようで、そうした理由もあって迷信や占いが禁止されているのではないかと団体では話していました。
菅野: 聞いてみないと分からない実情ですね。そのほかどんな罪で収容されている例があるんですか。
井形: それも資料の中にあって、刑法典という形でまとめられています。
これを見ると、やっぱり脱北ですよね。国境を勝手に越えたとか、国際的に外部とコミュニケーションを取ったといったことで罪に問われています。
窃盗も結構あるのですが、闇市で売買した罪で捕まっている人も多いですね。北朝鮮では、男性はみんな仕事をしていて、女性は建前上、家庭にいることになっているんですけど、それだけでは生活できないので、闇市で働いている女性が多いんです。だから、闇市で本来は売ったり買ったりしてはいけない非合法な商品を売買したとして捕まる女性が多いそうです。
菅野: 確かに女性が多いですよね、今回のインタビューの中でも、250人のうち女性の比率がかなり高い。
井形: それについては、やはり闇市で働いていて捕まる女性が多いことが反映されているのだろうという仮説を団体では立てていました。
菅野: そういえば、韓国ドラマの「愛の不時着」でもそういう場面、出てきましたよね。北朝鮮の男性が韓国の令嬢と恋に落ちる話なんですが、その男性が韓国製の化粧品を闇市で手に入れるシーンがあって、店の棚の下に隠してあった化粧品を「これね」と出してきた店員は、やはり中年の女性でした。
井形: きっと、それも北朝鮮の現実を反映させたシーンなんでしょうね。
人権侵害の実態を可視化することに意義
菅野: 収容所と聞くと男性ばかりのイメージがあるのですが、実際には女性も多くて、それだけでなくインタビューの内容からは子どもの存在も伺えますよね。そういう体力も立場も弱い収容者が少なくないということに驚きました。
井形: 0歳から9歳の子供の話もでてきますが、これは実際、この子らにインタビューしたというわけではなく、脱北者へのインタビューの中で、それくらいの子供も収容されていたという話が出たという意味です。
インタビューの中でどのような国際法違反が明らかになったのか、ということがここに列挙されています。
denial of healthですから、健康を損ねる処遇とか、拷問、思想の制限、強制労働、表現の自由に対する罰、あとは性犯罪もかなり多く、この監獄内で……。
菅野: 性犯罪も顕著でしたよね、数も、比率的にもね。
井形: 監獄に入れられた人の中に女性がかなり多い一方で、看守など監視する側は圧倒的に男性が多い。そういう力関係もあるんでしょうね。
菅野: 死刑ではなく、収容所内で命が奪われるという項目もありましたよね。
井形: やはり劣悪な環境で、体調が悪くなることもあるのですが、だからといって医者にしっかり診てもらえるわけではない。それで、監獄内で亡くなる人も多いということだと思います。
菅野: 幼児殺しのような項目もありましたが、それも劣悪な環境の中で子供が亡くなっていくという意味なのでしょうか。
井形: はい。幼児が監獄内にて生存権を侵害された様々な事例が含まれています。例えば、監獄内で生まれた幼児が十分な食事や水を与えられなかったため、衰弱死した事例が当てはまります。
また、大人でもちょっと音を出しただけで罰を受けるわけですから、うるさい赤ちゃんがいれば「おまえ、黙れ」と暴行を受けることもあったのではないでしょうか。実際に、看守が生まれたばかりの幼児を「生き埋めにした」事例がインタビュー結果から明らかになっています。
菅野: 強制堕胎というケースも挙げられていましたね。こうした監獄内の人権侵害を報告することで、実際に北朝鮮に圧力をかけられるのでしょうか。
井形: まだ調査は始まったばかりですが、こうした中立的というか、客観的な調査に基づいたデータを蓄積すれば、例えば国連の場で「こんなひどい人権状況にあるんです」と訴えることができて、国連の非難決議などにつなげられるかもしれません。ですから、データ収集やデータベースづくりは、きっと将来的に役立つはずだということですね。いつのタイミングで、どう使うかは、各国の思惑に左右される部分はあると思いますが。
菅野: 北朝鮮に対するカードになり得るということですよね。
井形: そうですね。それと、北朝鮮政府による北朝鮮国民に対する人権侵害が、実際にこのような形で、こんなにも行われているということが可視化されること自体に意味があると思います。
このデータベースには、インターネットから誰でもアクセスできて、何月何日、どこで、誰によって、どのような酷いことが行われたかというのが、すぐに分かる。監獄の場所の緯度と経度も記されていて、Googleマップなどを使えば上空からの写真も見られます。
データベースを見ることで、北朝鮮は、他国に対する核による脅しや外国人の拉致だけでなく、自国民に対しても人権侵害を行っていて、苦しんでいる人たちが大勢いるんだということが実感できる。多くの人に、北朝鮮国内の人権問題を身近に感じてもらえるという意義があると思っています。
〈後編へつづく〉
PROFILE
井形彬(いがた・あきら)
東京大学先端科学技術研究センター特任講師。専門分野は、経済安全保障、人権外交、インド太平洋における国際政治、日本の外交・安全保障政策。パシフィック・フォーラム(米国シンクタンク)Senior Adjunct Fellow。「対中政策に関する列国議会連盟(IPAC)」経済安全保障アドバイザー