佐藤暁子氏(国際人権NGOヒューマンライツ・ナウ事務局次長/弁護士)によるビジネスと人権コラム。
2021年は、「ビジネスと人権」に関する動きが国内外で飛躍的に進んだ年であったと言えよう。筆者はここ10年にわたってビジネスと人権に関する問題に取り組んできたが、これほどまでにメイントピックになるとは、当時は想像することも難しかったことからすれば、確かに大きな一歩である。
「ビジネスと人権に関する指導原則」10周年を迎えて
奇しくも昨年は、2011年に国連人権理事会が全会一致で承認された「ビジネスと人権に関する指導原則」の10周年であり、グローバルでは、過去10年間の取り組みの進歩と課題を振り返り、今後10年間の活動に向けた議論が活発に行われていた。この10年で改善した課題はもちろんあるが、一方で、10年経っても改善することなく、あるいは、コロナ禍も相まって悪化している課題もあり、取り組みを加速する必要がある。
指導原則は、企業が国際人権を尊重する責任があることを初めて明示したということもあり、企業の責任に目が向きがちであるが、指導原則が第1の柱として置いているのは、国家の人権保護義務である。すなわち、条約等で合意をされた様々な国際人権について、一義的にその実現の義務を負うのは政府である。
国家は、自国領域・管轄内の企業の事業活動が人権に対する負の影響を及ぼすことがないように、必要な施策をとることが義務付けられる。そして、政府が指導原則の実現に向けて、現在の施策とのギャップを特定した上で、取り組みのロードマップとして示すものが行動計画(National Action Plan(NAP))である。日本は、2020年10月に5か年計画のNAPを発表し、現在はその実施段階にある。
ギャップ分析を行っていない日本のNAPは実効的か
しかし、果たしてNAPは十分にその期待されている役割を果たしているだろうか。NAP策定段階から、日本政府がNAPにおいて重要な要素の1つである現在の人権侵害の状況に対する施策の実効性を評価する「ギャップ分析」を実施しないことに対して、策定プロセスに参加をしているステークホルダーからも大きな批判が寄せられていた。
ギャップ分析を行って初めて、指導原則の実現に向けて、特に注力すべき人権リスクを特定することができる。日本のNAPはこのプロセスを経ていないため、結果的に、NAPには、現在の施策が羅列されてはいるものの、それらの実効性について十分な分析がなされないままとなっている。労働や子どもの権利といった取り組みが必要な分野として挙げられているテーマについても、現在のギャップが明示されていないことから、具体的な課題は必ずしも明らかではない。
日本政府からは、他国のNAPでも必ずしもギャップ分析がなされているわけではないという説明も聞かれたが、例えば、ギャップ分析がなされたNAPと比較してみる。日本より1年前に、アジアで最初にNAPを策定したタイでは、「課題」という項目において、NAPのコンサルテーションのプロセスにおいてステークホルダーから指摘された内容が記載されている。
そこには、例えば、労働者の権利、雇用、移民労働者の取扱いなどの促進と保護に関する法律の改訂を含む政策やその実施方法に関する検討の必要性、労働者の権利に関する労働者自身の知識の取得といった能力強化の必要性、障害者や高齢者等の雇用の促進、職場や採用における差別、サプライチェーンシステムにおける労働の保護、公共調達について指導原則に基づいて改訂する必要性など、17項目が挙げられている[1]。これに基づき、課題ごとに責任官庁、タイムフレーム、指標と共に具体的な行動計画が記されている。
タイの人権への取り組みから示唆される施策とは
タイのNAP策定は、2016年の国連の普遍的・定期的審査(国連加盟国が人権状況を報告し、互いにそれを評価、勧告を行う仕組み)において、スウェーデン政府による勧告を受け入れたことを契機に加速した。水産物や鶏肉など欧米諸国への主要な輸出品目について人権リスクが高いと指摘されていたこと、隣国からの移民労働者も多く、また、都市開発による地域住民への影響など、様々な分野で顕著な人権リスクが既に指摘されていたことは、NAPのギャップ分析の記載に少なからず影響しているだろう。
加えて、策定過程におけるステークホルダーからの現状の施策に対するギャップに関する指摘について、(全部でなくとも)このような形で取り入れたことが、NAPをより意義のあるものにしたと言える。
翻って、なぜ日本はギャップ分析ができなかったのだろう。このような政府の方針は、従前の国連機関による勧告等への反応と共通するところがあるのではないか。最近でも日本政府は、刑事事件の被疑者勾留や精神障害者の強制入院について、国連の恣意的拘禁に関するワーキンググループから勧告を受けている。また、批准している国際人権条約の実施状況に関する定期的な審査においても、ジェンダー、差別、外国人労働者といった課題について、継続的に状況の改善を求められている。しかし、こういった勧告について、政府が過度にディフェンシブになることは珍しくない。
完璧な社会などない。人権については取り組みが比較的充実しているとされる国であっても、差別を始め、まだまだ問題は多い。その上で、少しずつでも確実に前進するためには、まず、国際機関やNGOを含む市民社会からの指摘も踏まえて人権の取り組みについてギャップを把握し、それに基づき実効性のある施策を導入することが重要だ。既に2年目に入った「living document(生きた文書)」であるNAPについて、2025年以降も見据えた施策の検討が喫緊の課題である。