菅野志桜里✕伊勢崎賢治 信条かけたトークバトル!「ウクライナ侵略への情熱と冷静」

「戦争はルールを知るプロにやらせろ」。アフガンでの罪を想え。〈菅野志桜里✕伊勢崎賢治対談〉

菅野志桜里✕伊勢崎賢治「ウクライナ侵略への情熱と冷静」信条かけトークバトル〈第4回/最終回〉

菅野編集長の国会議員時代、自衛隊活用のための法制化と憲法改正に向け、政策ブレーンとして共闘してきた伊勢崎賢治氏。いわば「同志」だが、ロシアのウクライナ侵攻に対しては、発信に距離感があるようだ。その違いを鮮明にし、合意形成なるか?を試みる対談を行った。

露米冷戦が再び出現したウクライナ。過去の冷戦を振り返れば、冷戦後主戦場となったアフガニスタンは20年を経て平和を得たか? アフガンで民主主義を掲げた人々を日本政府は見捨て続けている。日本は、人権国家として、緩衝国家として、ルールメーカーとなれるのか? 人権と平和への信条をかけた対談最終回。

◆菅野志桜里(TheTokyoPost編集長)

◆伊勢崎賢治(東京外国語大学大学院教授)

「日本政府はアフガンの民主主義者を見捨て続けている」現状への贖罪意識

菅野志桜里(以下、菅野) 自由主義陣営に属する人権国家でありながら、アメリカやNATO諸国とは違う役割を果たす。そういう両立、そのカードって、まさに伊勢崎さんが日本政府代表としてアフガニスタンでやった武装解除のような平和構築だったじゃないですか。戦争に勝っても戦後処理で負けることを繰り返す米国に対して、日本は戦後の平和構築という誇れる役割がある。私もそういう方向を目指すべきだとずっと思ってきましたし、今も思いたいです。でも去年のアフガン撤退の際、日本政府は平和構築で共に汗をかいたアフガン人を見捨てたでしょう。これから先、日本が現地の人とともに戦後復興を担う役割を果たせるのか、私は本当に悲観的になっています。

初動が遅かっただけじゃないですよね。今もなお、タリバンから名指しで殺されそうになっていて、日本に逃げたいと声をあげている現地の人と家族が残ってます。しかも、殺されそうになっている理由は、911後の平和構築に日本に協力して取り組んだからで、そんなやつは一族郎党みんな敵だと脅し上げられている。そういう人たちが日本に逃げたいと必死で声をあげているのに、日本は助けない。一緒に来れるのは妻子だけ、親兄弟は置いてこいという態度で、逃げようにも逃げられない状況を放置してます。そしてそういう国だと知れ渡ってしまった。

ここから先、日本は平和構築の役割を担えるのか、私は本当に心配です。自由主義陣営に属しながらも、平和構築という独自の役割を担っていく。そのための大事なカードを手放しかけているし、それを取り戻さなきゃいけないと心から思います。

伊勢崎賢治(以下、伊勢崎) まさか、まさか、他のすべての先進国は同胞人と差別なく同じ真剣さでアフガン人協力者とその家族たちを救出しようとしたのに、日本だけ彼らを見放して、大使館員だけ逃げるとは…。自由と民主主義のために一緒に闘ってくれたアフガン人同胞を、日本だけが見捨てるとは…。「命のビザ」も出さずに…。でも志桜里さん、まだ僕は諦めておりません。引き続きお力をお貸しください。

日本独自の平和構築の役割。そのとおりです。僕も、それに賭けたのですが。アフガニスタンで日本は、アメリカへの隷属なんて言葉じゃとても足りない醜態を演じました。この悲痛な日本人としての問題意識は、志桜里さんと僕は同じだと思うのですが。

菅野 同じなんですけど違うんです。私10年議員をやって、そこそこ政府の姿をみてきたじゃないですか。独自の役割を言い訳にして、人権国家としての当たり前の役割すら果たさない日本政府の姿を見てきてしまったんですよね。口では非難しても行動はしないとか。最低限の制裁すら発動しないとか。制裁してもその理由は人権侵害とは言わないとか。国軍とは話すけど民主派とは話さないとか。最後の例は具体的にはミャンマーの話ですけれども。「独自の役割」って本当に重いし結果を求められるから、軽々に日本政府に使わせたくないし、言わせたくないんですよ。独自の役割を果たすと啖呵を切って、人権国家として当然に果たすべき救済や制裁を棚上げするなら、相当の覚悟をもって結果を出さなきゃいけない。ミャンマー国軍とのパイプを強調して批判のトーンを抑制するなら、国軍を国際社会が最低限求める人権秩序に引き戻すという結果をださなきゃいけないでしょう? 民主派への非人道的な弾圧をやめさせなきゃいけないでしょう? それができないならせめて、自由と民主主義と法の支配という価値基準にのっとった行動で一貫させた方がよほど国家として説得力を持てるんじゃないでしょうか。

だからまずは日本政府には、国際社会のなかで当たり前の役割をきちんと果たしてくださいよと言いたいんです。そのあと本当に独自の役割を果たせる場面なら+αで果たしてくれよと、こういうことなんです。でも、民間の側からさらにもう一つ高みを目指して、日本ならではの役割を提起していくこと自体には共感です。

伊勢崎 なるほど。僕と志桜里さんの違いって、大きく例えると、平和vs人権のジレンマかな。

戦争や内戦において、停戦や和平の実現、つまり、戦いを止めさせるには、人権問題を“棚上げ”にしなければならない時が往々にしてある。人権侵害や戦争犯罪を厳しく裁くと脅していたら、紛争当事者は銃を置いてくれないから。

和平後にも、戦争犯罪の被疑者たちが連立政権の重要なポストに着いていて依然として政情が安定せず、いつそれが崩壊して戦争が再発するかわからない時、“棚上げ”がさらに長引くことがあります。2001年タリバン政権をアメリカが倒した後の(タリバンと同等もしくはそれ以上の戦争犯罪をおかした)アフガン軍閥たちで組閣した政権がその一例です。この政権はそのままズルズルと20年間続き、昨年8月に新しいタリバンによって崩壊させられてしまいましたが。

棚上げを“定着”させたケースもあります。長い間の分離独立戦争の末、2002年にインドネシアからの独立を果たした東ティモールです。インドネシア軍・警察、そしてそれに操られた民兵たちによってジェノサイドと称される殺戮が起きました。しかし2004年、両国は、戦後の両国の関係の“安定と繁栄”のために、戦争犯罪の訴追と処罰をせず“真実の究明”にとどめる合意に達しました。

上のアフガニスタンでも2007年、カルザイ政権の時に、政治的な和解のためにタリバンと軍閥たちがおかした戦争犯罪をすべて恩赦する法律を可決しました。もちろん国連や人権団体は、これらが「人権」を傷つけかねない措置だという危機感を表明しましたが。

苦しいですが、人権の普遍的管轄権の限界を感じる時です。

しかし、志桜里さんがおっしゃるように、日本政府は、このやむを得ない人権問題の棚上げを「中庸外交」という名目で“悪用”する傾向がありますね。ミャンマーの軍事政権への外交姿勢などが良い例で、国際人権世論から批判されています。

僕は、停戦を武装解除につなげる交渉をなりわいにしてきましたから、どうしても「人権」を平和のために“犠牲”にする実務家の眼を持ってしまうのですね。当然ながら、紛争当事国の被害者側は、そういう眼を持てるわけがありません。

菅野 平和のために人権を「棚上げ」し、被害者側や人権団体からも非難されてなお、両当事者の間にたって仲介を果たす。停戦を武装解除に繋げて「平和」と「安定」を取り戻す。それは誰かが引き受けなければならない究極の汚れ役ともいえるかもしれません。それをアフガニスタンにおいて日本政府として引き受けた小泉政権の判断、そして政権から実務を託された伊勢崎さんの活動、これはすごいことだったと思います。たとえその平和構築が満点の結果を出さなかったとしても、私は心から尊敬しています。

ただ、そうした役割をやり切る覚悟と適性がない状況においては、決して安請け合いしてはいけないとも思うんです。そして少なくとも、現時点でのウクライナの戦争においては、日本がそのように「人権」から一歩引いてでも仲介を買って出るような主体でもなければタイミングでもないというのが私の意見です。

伊勢崎 僕が現場で相手にしてきたのは、とんでもない戦争犯罪者ばかりです。戦争犯罪者に、政治的なポストや身の安全を確約して和平工作を進めるのですから、当然、人権団体から非難を受けます。「不処罰の文化 Culture of Impunity」を広げる人権の敵だと。しかし、戦いを止めるというのは、残念ながら、こういうことなのです。

それともう一つ、僕の原体験を話します。「民族自決・分離独立」という問題。既に述べた東ティモールです。インドネシアによる軍事支配に抵抗し独立闘争がはじまったのは、1970年代です。インドネシアによる虐殺はものすごかった。しかし、東西冷戦の真っ只中でしたから、独立派の東ティモール人たちは“アカ”と見なされ、テロリストとさえ言われ、アメリカを中心に西側諸国は、虐殺の張本人であるインドネシアを応援したのです。日本も、です。

冷戦終結後、西側は、まさしく“手のひら返し”で独立派を応援するようになり、結果、東ティモールは1999年、国連が主導する国民投票が実施され、住民の8割の賛成で独立を決定します。しかしインドネシア軍は悔し紛れに、退却と同時に東ティモールを徹底的に破壊しつくし、その後で、国連PKOが暫定政府として介入し、僕が派遣されたのです。

冷戦時代には、東ティモールでの虐殺は西側諸国ではほとんど報道されませんでした。インドネシアによる残虐行為に沈黙を貫いたのです。

それが東西どちらの陣営に支援されているかによって変わる、民族自決に対する国際社会の色眼鏡、そして「人権」に対する恣意性には、看過し難い問題があります。特に日本を含む西側のそれに。

ウクライナ東部ドンバスの件は、まさにこれに当たると思います。この理由で僕は、ロシア側が開戦の理由にしているドンバスでのロシア系住民に対するジェノサイドの件については、国際社会はもっと耳を傾けるべきだと思います。

菅野 ドンバス地域でロシア系住民が大量に殺されているのは、プーチン大統領の一方的な主張だと私は認識しています。2014年ウクライナでのマイダン革命で親プーチンのヤヌコーヴィッチ大統領が国外に脱出して間もなく、ロシアは公式の宣戦布告もなしにクリミア半島を一方的に併合した。あわせて、自国のメディアを使って、自国民の認識に対して徹底的な働きかけを行った。つまりウクライナのマイダン革命は米国が仕掛けた陰謀であり、ウクライナの新しい政権はネオナチ信奉者であり、そのファシストたちがドンバス地域でロシア系市民を迫害している、こういう文脈で、ロシア国民の認識にプーチンの理屈をすりこんでいった。でもドンバスでの紛争開始後、国際赤十字やヨーロッパの安全保障協力機構の監視団など様々な国際機関が入っていますが、ジェノサイドを裏付けるような報告は出ていないと思います。SNSを通じて瞬時に現地の状況が拡散される現代、もし仮にドンバス地域でプーチンの物語に沿ったジェノサイドという真実があるのなら、プーチン側はどんどんその裏付けを主張し拡散するはずではありませんか。情報統制を強いている側と、自由な情報空間を維持している側があり、事実に関する両者の認識に矛盾がある場合には、私は後者の側に真実がある可能性がずっと高いと考えます。

もちろん、イラク戦争に象徴されるように、米国にもフェイクを利用し自国に有利な戦端を開いた過去はありますよね。もっといえば、冷戦からソ連崩壊そして現在にいたるまで、米国もNATOもそして日本も愚かな選択をしたことがあったと思いますよ。冷戦時代の身勝手な判断で小さい国の国民をたくさん傷つけてきたし。ソ連崩壊後でいえば、西側諸国は勝った勝ったと歓声をあげるのではなく、大きな決断をしたロシアとともに新しい国際社会規範をつくっていこうという姿勢で臨むべきだったと思います。ただ、こうした過去の苦い背景事情は、今起きているロシアによる侵略戦争の正当化理由にはならないこともやはり付け加えておきたいと思うんです。

ゼレンスキー大統領発信の問題点「戦争のルールを知らない市民を扇動するな」

菅野 そこで、最後にもうひとつ。伊勢崎さんは、ゼレンスキー大統領の発信の問題点として、ウクライナの市民に銃をとらせてはいけない、と指摘してますよね。ただ今のウクライナは、戦いたくない市民も含めて戦わせているわけではない。徴兵制ではないですよね。どういう点を懸念しているのか、大事な点なので聞きたいです。

伊勢崎 その通りです。まさに、徴兵制ではないからダメ、ということです。徴兵制とは、国家が国際法に対する責任の下、国民を動員する一つの制度です。国家の責任で国民を動員する以上、軍事訓練に加えて、敵の捕虜を虐待しちゃいけないとかジュネーブ諸条約など基本的な戦時のルールをその国民に教え遵守させるのは、国家の義務です。それをしていない状態で、何の経験もない市民にいきなり銃をとらせてはいけません。

菅野 そうか。つまり、平時に民主主義的プロセスにのっとって徴兵制という制度設計があり、その制度に基づいて日ごろから訓練も行われていて、いざ万が一の戦争になったとき「市民よ、銃を持て」と、こういう指示をするならよい。伊勢崎さんの主張はそういうことですね。

伊勢崎 そう。無辜な市民を戦争に駆り出すと、戦場は更に混乱し、年齢制限なんかもおかしくなっていってしまう。少年兵という深刻な国際問題は、まさにそういう現実の延長にあるのです。アフリカの野蛮なゲリラ組織でも、最初から子どもを兵器として使うなんてことはしません。戦場が疲弊し混乱した結果、それが起きるのです。ウクライナの場合、正規軍がまだちゃんと戦っているのに…。

武器をとらないからこそ、無辜な国民・市民は、国際法が保護する対象になるのです。本来なら、大統領というのは、その国際法に依拠して、国民・市民を敵から守るべき存在なのです。

菅野 民間人を突然戦争に駆り出して銃をもたせるような状況と、制度としての徴兵制のもとで市民も戦争に参加する状況とを区別せよ、ということですね。その上で少なくとも前者はいかんだろう、と。そこはよく分かりました。

ただもひとついうと、今ゼレンスキー大統領は「市民よ、銃を持て」と言っているわけではないですよね。意思に反して市民が戦闘員に駆り出されている状況ではまったくない。

伊勢崎 いえ。「市民も戦うほど徹底抗戦しているのだから、もっと武器を供与してくれ」というコンテキストでNATO諸国に言い募っています。それと、市民の意思と言っても、戦いたくない人も絶対にいるはずです。

菅野 それはもちろんいるでしょうね。そして戦いたくない、と言える状況ではないかもしれませんね。

伊勢崎 はい。今のウクライナは、戦時中の日本のようなテンションと忖度が国民を支配している状態でしょうね。異を唱えたら、非国民扱いされるような。

菅野 なるほど、つまり予期せぬ侵略を受けて市民が銃を持った時に、それをやめろとは言えないまでも、それを鼓舞するような役割をリーダーが果たすべきではない、そういうことですね。

伊勢崎 はい。大統領がそれを外に向けて言うことは、なにより敵国ロシアに、ウクライナ国民は無辜の市民ではなく、戦闘員だと宣言していることなのです。これは恐ろしい。

アフガニスタン戦争が佳境のとき、アメリカの士官学校の教官がつくったある教材が大問題になったことがあります。当時、仲の良かった米軍指揮官の一人が、アメリカのメディアが取り上げる前に僕に見せてくれたのですが、結局、その問題の教官はクビになりました。どういうものかというと、イスラム教徒には穏健派はいない。全員テロリストだとアメリカ国民を洗脳するメディア戦略の後、あるイスラム教国を大量破壊兵器で壊滅させるシミュレーション教材だったのです。「ヒロシマ・ナガサキを例に」という但し書き付きで。

つまり、敵国国民に無辜な市民などいない。全員が野蛮な戦闘員だ。市民と戦闘員を区別なく殺す無差別攻撃には、攻撃する側、そしてその国内世論に、このマインドセットが必要なのです。

菅野 無差別攻撃は市民がターゲットになる。そんな市民は自ら銃を取るようになる。そして市民が戦闘員化していくことによって、あってはならないことだけれども、無差別攻撃の正当化に使われていく。そういう連鎖をここから断ち切らなきゃいけない。そう理解したんですけど、あってますか?

伊勢崎 ありがとうございます。いいまとめです。そのとおりです。

菅野 よかった。大事なところなので、そこはちゃんと私も理解した上で伝えたいと思って。その点については、今お話を伺って共感しました。市民の戦闘員化を防ぐ流れでいえば、傭兵のルールもきちんと国際社会の中でつくらないといけませんね。

伊勢崎 はい。「傭兵の募集、使用、資金供与及び訓練を禁止する条約」というのがあります。ロシアは批准していません。アメリカも、です。しかし、ウクライナは署名ですが、しています。もちろん日本は批准も署名もしていません。

今回ウクライナは、募集しているのはボランティア、つまり義勇兵だと言っています。傭兵は報酬目当て。これに対して義勇兵は戦う意義に賛同して無償で命を捧げるものでしょうか。この条約で禁止するのは傭兵ですが、現場では明確に区別できるのでしょうか。

ISISやアルカイダだって、戦ってくれる兵は金目当てじゃなく、ムジャヒディーン(イスラム聖戦士)だと言うでしょう。義勇兵は本当に無償で戦っているのか? なんかこのへん、青年海外協力隊はボランティアか? みたいな議論と一緒ですよね。

傭兵、義勇兵、何と呼ぼうと非正規のものは、国家の指揮命令系統で統率されにくい。正規軍なら軍規があり軍法会議もあるが、外からいきなりやってくる非正規なものを、いかに、例えば、やっと合意に達した停戦などの国家の意思を破らせないように、そして正規軍でさえ問題になる戦争犯罪を犯させないように、戦場で統制するか。それこそが問題であり、傭兵・義勇兵の線引きは、無意味です。そこに条約の欠陥があると思います。

今回の経験を経て、傭兵だけでなく、戦争当事者国が自らの軍規によって、ジュネーブ条約など国際条約に則った統制を保障できない、海外からの全ての非正規な要員の使用を禁止する条約をつくるべきでしょうね。

菅野 ものすごく大切な論点ですね。戦争はなくしたいんだけれども、なくならない。なくなっていない。だからせめて、プロによるルールにのっとった限定的な戦争にする努力を前に進めて、非人道的な戦争をなくしていこうとしているわけですよね。人道的な戦争なんてないことは百も承知で。だからこそ市民が戦闘員になったり、傭兵や義勇兵が戦闘員になっていくことはやめなきゃいけない。

伊勢崎 ありがとうございます。素晴らしい。

菅野 こうした人道的なルールを普遍化することはすごく大事だし、日本もきちんと対応しなきゃいけないですよね。引き続き一緒に活動を続けていきましょう!よろしくお願いします。


戦争にもルールがある。日本はいまだこのルールを定めていない。ロシアによるウクライナ侵略は他人事ではない。米中露の地政学的緩衝国家として日本は、アジアの実力ある人権国家としての矜持を保ちつつ、独自の外交力を発揮していくことができるのか。そこに菅野志桜里、伊勢崎賢治氏が人生を捧げている。