プーチンによるウクライナの戦争。
刻一刻と変わる苛烈な戦況分析は、研究の蓄積を持つ専門家に正しく委ねたいと思います。また、この現在進行形の戦争に即応して、なにか新しい教訓や提案を発信するのは時期尚早。ためらいがあって然るべきだと感じます。
でも、民主主義の優位性や自衛の必要性など、これまでも説かれてきた基本的な認識を再確認し深めることはできるかもしれない、すべきかもしれない。そう考える皆さんと少しの時間を共有したくて以下記します。
民主主義の優位性
民主主義は専制主義より優れている。
デジタル時代のコロナ禍で、この優位性の確信にどこか揺らぎが生じていたことを覚えています。この戦争の始まる前まで。ほんの2週間前までは。
たしかにこれまでも、中国やロシアにおける独裁的な政治プロセス、そして看過できない人権弾圧は数多く積みあがっていました。香港における苛烈な民主派弾圧も、ウイグルでの強制収容や強制不妊治療も、ロシアのジャーナリストたちの不審死や暗殺も、チェチェンやシリアやクリミアにおける残虐な行為も。隠されていたわけではなく、その多くは私たちの耳に届いていたし、非難や制裁や救済といった具体的行動に出る場合もありました。
でも一方で、デジタル時代における専制国家は、ビッグデータを国家に集中させ、経済や安全保障を確実に強くしているようにみえました。コロナ禍においては、個人の行動を強権的に素早く制約できる独裁体制が、パンデミックを統制する大きな力となっているようにもみえました。いかにも遅くて玉虫色の民主的決着より、リーダーによる迅速で明確な決断が一瞬うらやましく見える瞬間も、あったかもしれません。
熟議による民主的な政治より、強い指導者に率いられた独裁的な政治の方が、ときに国家として合理的な行動をとりうるのではないかという、かすかな価値観の揺れ。
人心に忍びこんだこのかすかな価値観の揺れが、専制国家による非人道的行為の意図的見逃しにつながり、現在の状況を創り出す一因になっているのではないでしょうか。
領土交渉のためロシアに配慮するのは仕方ない、ビジネス環境のために中国に配慮するのも仕方ない。独裁体制のもとで確かに起きていた人権弾圧を繰り返し放置してきた背後には、こうした暗黙の配慮がありました。そして、この恥ずべき暗黙の配慮の背後には、人心に潜む価値観の揺れの共鳴があった。そのように私には感じられます。
でも、いま、この価値観の揺れが止まりました。
プーチン大統領は、全世界を敵に回しても、非人道的な虐殺を継続し、ウクライナ全土を征服するという決断をしているようにもみえます。そして専制国家においては、そのたった一人の独裁者の犯罪行為を止める装置がどこにも見当りません。連日メディアを通じて、プーチンを止められるのは誰だと、答えの出ない問いが投げかけられています。
結局のところ、専制国家における独裁者の判断ミスは、誰も修正できないまま致命傷に至ります。そして独裁体制そのものを変えない限り、その致命傷は修復されない。その絶望的とも思えるプロセスを今、日々私たちは目にしているのです。
もちろん、民主主義国も間違えるし、ときにその間違いは致命傷に至ります。例えばアメリカがトランプ大統領を選び、その選択が、人種間の分断と差別による多大な犠牲と立法府占拠という民主主義の致命的な危機をもたらしたように。それでもなお、民主主義が生きのびれば、致命傷に至っても常にそこには修復のチャンスが残されます。
民主主義も専制主義も間違いを犯す。ときに致命的な誤りにも至る。それでもなお民主主義が優れているのは、個々の判断の正答率にあるのではなく、間違いを直せる可塑性にある。この認識を共有できれば、専制主義に対する民主主義の優位性の揺らぎを止めることができる。そしてその優位性への確信を固めることは、ロシアや中国などによる更なる侵略行為を止めるためにも、決定的に重要なことではないでしょうか。
自衛の必要性
もうひとつ実感されたのは、自分の国を自分で守らずして他国は守ってくれないという当たり前です。
日本に憲法と日米安保条約があるからといって、日本国民による自衛のための武力行使なしに、米国が守ってくれるわけではない、という当たり前。この当たり前を再確認するためには、「戦争反対」という言葉の内奥をきめ細かく観察することが有効かもしれません。今ウクライナの件で「戦争反対」を思うとき、それは侵略のためのロシアの武力行使に反対しているのか、自衛のためのウクライナの武力行使を含めて反対しているのか、あるいはその区分に無自覚なのか、あえて判断を先送りしているのか。この問いに対して一人ひとりが自覚的に向き合うことが今求められています。
いやいや自衛の許容性も必要性も当たり前、むしろ今日本で議論すべきはその強化論だという見解も当然あるでしょう。
もちろん今の段階で、ウクライナの戦争が日本の防衛リスクにどう影響を与えるのかは明らかではありません。中国は、国際社会の結束・制裁の強さから台湾侵攻が簡単ではないと学んでいるかもしれない。同時に、結束・制裁の閾値を図り作戦の具体化に役立ててもいるはずです。
とはいえウクライナの戦争を契機に、台湾有事や尖閣有事、北朝鮮のミサイル問題など具体的なリスクを念頭に置いて日本の防衛議論が活発化するのは当然のこと。
ただ、新しいオプションの提示は、必ずしも現実的な防衛強化につながるとは限らないという点に注意して、議論に耳を傾けたり参加したりした方がよいように思います。
北朝鮮によるミサイル威嚇への対応については、新しい選択肢を無理に掘り起こそうとするよりも頓挫したイージス・アショアの再検討が優先されるべきかもしれない。
台湾有事や尖閣有事への抑止力強化を考えても、核シェアリングの議論に今注力することは余り生産的でないでしょう。米国の意思に反する使用はあり得ない点で現状と変わらないし、実際に核兵器が日本に置かれる分のリスクは増します。核抑止に関して日本の意思を反映させるなら、むしろ日米拡大抑止協議を深める方が有効とも思えます。あわせて敵基地攻撃能力については、専門家の知見をベースにした議論を進める意義はあるように思えます。
いずれにしても、新しい提案を吟味する際は、「新しい」という魅力を差し引いて、その内容を吟味するよう注意しましょう。そして専門家の知見に対しては一定の敬意を払いましょう。そもそも自分にとって「新しい」ことも、専門家にとっては新しくないことの方が多く、それどころか既に決着のついた議論であることも往々にしてあるのですから。
そして最後に、私の意見を少しだけ付け加えさせてください。
主権者たるウクライナ国民が、今もなお、自ら極限のリスクを負って国家主権を死守するという選択をしています。
ウクライナが死守しているのは、ウクライナの主権のみならず、国家主権という概念そのものです。国家が主権を失うとき、国民の尊厳を守る力をも失う。そうであるなら国家主権というのは、武力をもってしても守る価値があると考えます。
ウクライナ国民の選択を、引き続き最大限支持します。